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福音

「神は光であって暗いところが全くありません。」
神さまがこの世界を造られた時から、この世界には明と暗、光と闇が存在しました。まるでそれに呼応するように、この社会にも、そして私たちの心の中にも光と闇が存在します。
しかし「神さまは光であって、暗いところが全くありません。」と聖書は伝えています。全く明るい存在。曇りやシミが一切ない存在、すべてが明らかで隠すところが全くない。影がない。そんな光に触れる機会があったら、私達はどうなってしまうでしょうか。想像してみてください。まぶしいほどの光、すべてが見える場所、一切のものが明らかになるところ、すべてを照らす存在。目を開けていられないかもしれませんね。明るすぎる!と思うかもしれません。
もう一つ、聖書が説明する神さまの性質があります。「神さまは愛です。」
愛は神さまから出ているのです。私達が自分のことは置いておいて、ひたすら人のことを考え人の幸せや利益のために働くとき、不思議と自分も幸せな気持ちになりますね。でも、疲れてしまうかもしれません。なかなか、私の体と心は人を愛するのに向いていないと思う次第です。神さまは愛です。ということは、愛がこの方そのものであるということです。例えば、「卵のしろみはタンパク質です。」といえば、しろみはタンパク質で出来ている、しろみの成分(そのものを構成しているもの)はタンパク質だ。となっているように、神の成分は愛だということになります。愛によって出来ている存在。いったいどのような存在でしょう。愛って何でしょうか。自然を愛すること、人を愛すること、妻を愛すること、子どもを愛すること、動物を愛すること、花を愛すること、音楽を愛すること、社会を愛すること、私の生活の優先順位の上位に何を持ってくるのか、何のために時間を割くのか、私は何を喜ぶのか、この大切なモチベーションが愛かもしれませんね。"神さまという愛"はどこを向いているのでしょうか。この愛なる存在に触れる機会があったら、私たちはどのようになってしまうでしょうか。想像してみてください。愛が私を見ている。愛が私に触れている。愛が私を包んでいる。うれしすぎる!と思うかもしれません。

この世界を造られ、私たちをこの時代に置いた存在が神さまだと聖書は伝えています。それが本当のことであるならば、それはそれは幸せなことではないでしょうか。その存在が全く明るい光であり、愛であるとしたら、どれほどすばらしくもうれしい存在でしょうか。そればかりではありません。そのお方が私たちを見つめ、愛し、私たちを子どもとして迎えてくださると聖書は伝えています。
神さまの子どもになりましょう。そのためには、私たちが神さまの子供となる決心をすることが必要です。光なるお方の子供となるために、闇を持つ生まれ持った性質を捨てる決心をすることです。捨てると言われても、シャツやズボンではありませんのでその辺にポイと置いていくわけにもいかないですよね。神さまは私たちが神様の子供となることができるように、神さまの国からイエスを遣わしてくださいました。このお方は私たちと同じ人間として生まれ、私たちが持っている闇の性質を捨てるために、全く闇のない光の存在であるにもかかわらず、闇の性質を持つ者の代表として、神と人の前で十字架によって処刑されたのです。このお方の犠牲によって私の闇が処罰されたのだと信じること。これが私たちが闇の性質を捨てる決心をすること、神の子供となる決心をすることです。
イエスはどうしてわざわざ私たちが神さまの子供となるために自分を犠牲にしたのでしょうか。
このお方が愛だからではないでしょうか。
「神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。」

 

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